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人の情熱という熱量の喩えがあるが、これは喩えではなく現実に存在するのだと思う。熱量の高い人の近くにいると熱は高い方から低い方に流れ込んでくる。逆に周囲が冷めていると自分の熱が奪われていくので常に発熱してないと熱が下がる。持続性を重視して熱量を抑えると周囲を変えるほどにはならない。

上田瑠偉さんブランドフリーのプロ契約!やるなぁ。世界一を勝ち取ったからできるのかもしれないけど、当たり前を破壊したイノベーションとも言えるのかもしれないなぁ。https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000087747.html

変化がくる前に試行錯誤していたことがベースとなって大きな変化の波が来た時にすぐに乗れたという話を聞いた。たまたまやっていたことが博打的に時流に乗ったというのでなく「XXXしなければならない」の前に「XXXを実現したい」というビジョンがあったからだと考える。たまたまではなく必然。

地方に移住して10年経つがライフスタイルがだいぶ変わったのでそろそろやってきたことをまとめたいなぁ。そんなんばっかだなw 今の時代なら共感してくれる人も増えただろうし。

「変化し続ける」と「変化に適応する」って実は違うよね。変化に適応するって変化がなければ変わらないって事では?変わり続けるとは外的環境とは関係なく自らが変わり続けるって事だよね。

自分が工夫してやってきたことと似たような事に別の誰かが名前をつけた時に、その名前がついたことを好意的に思うか、そうでないかは人によって変わりそうだ。自分は「良い名付けが自分で出来なかったことを悔しく思う」タイプなので「それはXXXですね」と言われると嬉しさと悔しさが混じり合う。

昔現場で試行錯誤して到達したやり方を知った人が「それはアジャイルですね!」って言ったら、その人に「アジャイルって一言でまとめるな」って怒られたという話を思い出した。何かのレンズで物事を見ている時になんでもそのレンズで語りたくなってしまうのは人の性なのか?

昔のことを昔の人が蒸し返すのは老害になる可能性が高いが、昔のことを知りたい人が情報にアクセスできる道筋だけは作っておくのが昔の人の役割なのかもしれんなぁ。などと思うのは自分だけだろうか?こういう感覚は恐らく民俗学に惹かれた自分だから持つ感覚なのかもしれない。

自分がイライラするからと言って起こした行動は結局持続しない。エネルギーを前向きな行動に変えるという意味ではムダではないがその先に向かうには別のエネルギーを取り込まないといけないね。やってみてのフィードバックでエネルギーの使い方は変わるか?

『忘れられたXPer』の時にコメントもらったジャグリングについての話題。マインドマップ、ジャグリング、アジャイルは地続きだったというのがわかったのでした。https://tinyurl.com/ygadzblp

15年くらい前にメルマガの連載で書いてた「アジャツール」のWeb版。アナログなツールをどう活かしていきいき仕事するかの試みをしたためている。万年筆、ふせん、仕事中のお菓子、腰リールメモ、などなど小さなカイゼン集。 https://medium.com/アジャイルな仕事の道具箱

自分は自己表現・その時の思考の記録の一貫として呟いています。思いついたものを流してScrapboxとかtkskkd.comに残していくお仕事。Twitterに流すのはおまけなのでした。。。反応あったら嬉しいけどなくても別にいいやのお気持ち。

何でもいいけど「こうやるんだ」というやり方だけ書いてあったり「XXXのルール」と守るべきことだけ書いてあると「なぜそれが必要なのか」書いていないことに物凄くイライラする。それがイライラするからプラクティスではなくパターン形式で表現しようぜという活動をしてた思い出した。

自分の意思で親から受け継いだ会社をシュリンクさせていく話を何人かに聞いて、本当に意識が変わった人の行動はこれまでのしがらみにまったく囚われないという事実に気づかされた。儲かるからとか儲からないからではなく、維持するのも終わらせるのも、いずれも自分の責任で行うということ。

「XXXでは普通なのに日本ではやってないのがダメ」という論調はキリスト教の名の下に世界に赴きローカルの文化をズタズタにした中世のヨーロッパ人の振舞いを想像する。ローカルの良さ・文脈を無視し劣等のレッテルをはり置き換えるという行為の裏に暴力性を感じる。それが「よかれ」だとしても。