Skip to main content

人が行う人のための行為のほとんどが「構造破壊変換」行為なんだ。なぜなら「構造の保全」ということを考えておらずその時、人の頭の中にある「目的の達成」しか見えていないから。構造や自然を破壊しようなど思ってなくても結果的に破壊してしまう。それは「人が周囲の世界とつながっていない」ため。

父にMTBを買ってあげた

父にMTBを買ってあげた

今年の10月で79歳になる父にMTB(メリダ)を買ってあげた。

父の趣味は野鳥撮影で、休みの日には20km(!)も自転車で移動したり歩いたりしながら、大好きな野鳥を探しにでかけている。未舗装路を走るのでガタガタ振動がきついという話を聞いていたので、メリダの安いグレードの前サスの自転車を選んで父の日にプレゼントした。

父は「80歳までは電動アシストは乗らない」と豪語している。周囲の友達は皆電動アシスト自転車だそうだ。その計算だとあと1年くらいしか使わないかもしれないけど、前サスペンションで振動を吸収して快適な写真撮影をして欲しい。

 

坂でも降りないで自転車で登ってる父のような高齢者を目指して自分も鍛錬しよう!

 

「褒めるは上から目線か」問題。褒めるという行為による依存性を回避したいのかな。自分は誰かの何か(子供でも大人でも)を見て「凄い!」と言ってる。褒める(相手への行為)ではなく自分の感情を表現してる(つもり)。https://qr.ae/pGPYE4

「傍流志向」というキーワードが浮かんできたので、少しまとめてみた。https://scrapbox.io/tkskkd-world/%E5%82%8D%E6%B5%81

今年の頭くらいに数秘術にハマってPythonで鑑定スクリプト書いておいたのだけど、また使う機会があったので今度はさくっとWeb化してherokuとかに置いて自分で鑑定できるようにしようかなぁ。フロントエンドだけで完結するように作り直してもいいかもしれない。

生き残るための変化と、さらなる表現のための変化は違うのではないか仮説。リアクティブな変化ではなく生を全うしようとするための変化。同じ変化でも両者を混同すると本質が見えなくなるのではないか。

昨日から、"Don't Think, Feel"のことを"DTF"と略して呼ぶようにすることを決めました(特定の人物との間に限る)

「戦い」や「戦闘」のメタファーを使いがちが点が、現実の人類の「戦い」が終わらない理由の現れなのかもしれない。「戦い」のメタファーが不要な世界がくるといいね。

娘が『東京リベンジャーズ』のアニメにハマってるらしく自分はマガジン連載をずっと読んでいるので話やキャラがわかり娘との共通の話題ができて嬉しい。推しキャラがいつも死んでしまうと嘆く娘に「あ、〇〇は死なないから安心して推していいよ」とだけ伝えておいた。

信頼ってどんな結果になっても相手を受け入れられるということではないのかな。結果によって「期待してたのに裏切られた」というのは条件付き。信頼は言い換えると「無条件の愛」に等しいのでは?という理解。

チーム(組織)の痛み、恐れ、信念という方向から不都合が現実を作り上げているというアプローチもできるのかもしれないな。生存適合OSのチーム版を考えてみると面白そう。今度やってみよう。無自覚の信念に気づき、それを書き換えることで行動を変えるという観点はよさそう。

タガメの飼育の様子がツイートで流れてくる。ブリーディング経験あるからいいやと思っていたが息子や小学校の子どもたちに見せてあげたいと思うようになってきた。タガメ里親は幼虫預かって成虫にして戻すので卵塊から一斉に孵化する瞬間は見せられない。他県で探すより愛媛で探索したい。悩ましい。

愛媛マラソンも四万十ウルトラも縮小してやるみたい。四万十は日程的に行けないけど愛媛はエントリーしてちょっとは気を入れて練習しようかな。Sub3.5で再び走れるのだろうか... https://ehimemarathon.jp/

大谷選手は野球界のマルチ・ポテンシャライトを地で行ってるなぁ。 "打者として必要な準備をこなして、投手としても先発の合間に準備をするなんて考えられない" https://www.jiji.com/jc/v4?id=ohtanishimura21060001

今では「魚を釣る=食べる」という発想も身についたので、海の魚は食べるために釣るけど(もちろん釣りも楽しい)生態を知りたいという根源的欲求はある。「生き物を飼う=エゴを満たすこと」と感じた時期もあり生物飼育は一端やめた。最近、子供が興味持ち始めてからまた再開しつつある。