Takeshi Kakeda (tkskkd)
kakeda at zensow.jp
Japan - Ehime - Matsuyama
分離→統合を進めて全体性を取り戻すいきいきデザイナー&プラクティショナー&エヴァンジェリスト
アジャイル(22年)、パタン・ランゲージ(13年)、パーマカルチャー(15年)、ビオトープガーデニング(10年)、ウルトラ&トレイルラン、メンタルモデル探求、乱読書、生態系保全、心身一如、自分、他者、すべての生物の「いのちを活かす」ための活動をしています。
個人やチームのアジャイルメンタリング&コンサルティング、メンタルモデル紐解き、個人・チームの心身の健康カイゼン支援、などなど。
「失敗は学びの機会である」が「手痛い学びの機会」も当然ある。心が痛ければ痛いほどその体験は身体に強く刻まれその人の血肉となる。「もうこの思いはしたくない」と心からの反省をし以降は最大限の努力・対策を講じるか「痛みを回避したい」と思って二度と行動に移さなくなることもある。痛い...
最近はスタンディングデスクでスラックレールに乗ってpc作業してる。手で支えてるからバランスは取ってないけどいつもフラミンゴみたいに片足な気がする。これでバランス性高まった気はしないが足裏の刺激にはちょうどいい。https://
子供の頃からずーっと生き物が好きだった自分が、突然プログラミングやりたくなってソフトウェア開発の世界に入ったのって、今になって考えると「自然の営みや仕組み」と「人が大勢で何かを作り続ける」という行為は根っこは全く同じということを学ぶためだったのかもなぁ、とふと思った。
アジリティはスキルであり「力」なので、あとはそれをなんのために、どこで使うかだけが問題だね。
今日は「失敗ではなく、何か新しいことを学んだということ」という格言を伝えた。のびしろだよ、のびしろ。
他人や自分が辛い状況に陥った時「何を学ぶためにこの状況を望んだのだろう?」と考える。メンタルモデル的な不本意な現実、魂のレッスン的な学びの機会、どちらにしても「その状況は自分が作った」と考え「何を体験し何を学ぼうとしているのか」に意識を向けることで出来事の意味づけを行う。
データに透明性がなくシナリオプランニングもできずプランBもCもなくただ唯一の「有りたい姿」だけみつめひたすら突き進んでいるのかなぁ。https://
同じように人がせっせと世話をするのではなく手伝い程度で勝手に作物が育つ畑の方が作物と人との関係としては望ましいのではないかという仮説。人は実りを頂き、作物は土壌を耕し循環の輪を担う存在。あくまでも人と作物は対等な関係。自然農やパーマカルチャーが目指すのはそんな関係性かもしれない。
久しぶりに真面目に生き物を飼って世話をして気づいたが人の世話が生殺与奪している生き物との関係性はあまりよくない感じがした。人は環境をある程度整える手伝いはしても世話を直接するのではなく、人も環境から利をもらい同じ環境に依存する対等の関係として生物と触れ合いたい。里山がまさそれか。
ポートランドでコブベンチ(土などで作る自作ベンチ)を作って町中においてる話あったな。まちを住人が自由にハックできるといい街になるかも(シティリペア) https://
中埜さんが修復プロセスではなく修飾プロセスと呼ぶのはどうか?と言っていた。修復だと後戻りをイメージする人が多いからだそう。構造保存変容はこれまでの構造を保持したまま新しい構造を生成するので元に戻るイメージではないね、確かに。
自然環境保全っていうと森や川を守る的に捉える人多そうだけど、身近な自然環境は自分自身の身体だということに気づかない人が案外多そう。自然環境の破壊に無頓着な人は、身体という自然環境にも無頓着なのではないか仮説。逆に身体に目を向けると自分を取り巻く周辺環境にも目が向きやすくなるかな?
人がなにか行動を起こす前に様々な体験をしたり、考えたり、感じたりすることは、その人の内面に内在秩序(implicit order)を作っていくことなんだろう。時期がきたら展開(unfolding)していくが既に構造は内部に包み込まれていてどう進むかが決まっているのかもしれない。
タガメが売買・譲渡禁止になって、商売目的で飼ってた人がタガメを放棄するらしい。それで野良タガメが普通ならいそうもないところに出現するという仕組みだそう。なかなか難しい。
しばらく預かっていた某ゲンゴロウ幼虫たちをやっと引き渡せて肩の荷が降りた。相変わらずなぜあの住宅地の水田にいたかは謎だけど中干し前にいくらか救出できてよかった。