「後でやる」を「今やらない」と変えて考えるだけで後回しの意味が変わってくるのかもしれない。後回しとは今やらないことを決めること。https://
10年先んじてた!リモートワークは5年くらい先行!(仕方なく移住したのは内緒) https://
柳宗悦の民芸運動に触れているのが秀逸な論考。「最高に輝く」ために何かするより「最高に輝く」ことの障害物を取り除いて行けばよい気がしてる。このあたりやっとむと話してみたいな。https://
克服型(痛みを克服して二度と味合わないようにする)の人は、逃避型(痛みを逃避して二度と味合わないようにする)の行動を理解できないし、逆に逃避型は克服型の行動を理解も真似もできない。共に「痛みを回避している」という点では同じなんだなぁ。痛みを味わうとはどちらでもない。
「失敗は学びの機会である」が「手痛い学びの機会」も当然ある。心が痛ければ痛いほどその体験は身体に強く刻まれその人の血肉となる。「もうこの思いはしたくない」と心からの反省をし以降は最大限の努力・対策を講じるか「痛みを回避したい」と思って二度と行動に移さなくなることもある。痛い...
最近はスタンディングデスクでスラックレールに乗ってpc作業してる。手で支えてるからバランスは取ってないけどいつもフラミンゴみたいに片足な気がする。これでバランス性高まった気はしないが足裏の刺激にはちょうどいい。https://
子供の頃からずーっと生き物が好きだった自分が、突然プログラミングやりたくなってソフトウェア開発の世界に入ったのって、今になって考えると「自然の営みや仕組み」と「人が大勢で何かを作り続ける」という行為は根っこは全く同じということを学ぶためだったのかもなぁ、とふと思った。
アジリティはスキルであり「力」なので、あとはそれをなんのために、どこで使うかだけが問題だね。
今日は「失敗ではなく、何か新しいことを学んだということ」という格言を伝えた。のびしろだよ、のびしろ。
他人や自分が辛い状況に陥った時「何を学ぶためにこの状況を望んだのだろう?」と考える。メンタルモデル的な不本意な現実、魂のレッスン的な学びの機会、どちらにしても「その状況は自分が作った」と考え「何を体験し何を学ぼうとしているのか」に意識を向けることで出来事の意味づけを行う。
データに透明性がなくシナリオプランニングもできずプランBもCもなくただ唯一の「有りたい姿」だけみつめひたすら突き進んでいるのかなぁ。https://
同じように人がせっせと世話をするのではなく手伝い程度で勝手に作物が育つ畑の方が作物と人との関係としては望ましいのではないかという仮説。人は実りを頂き、作物は土壌を耕し循環の輪を担う存在。あくまでも人と作物は対等な関係。自然農やパーマカルチャーが目指すのはそんな関係性かもしれない。
久しぶりに真面目に生き物を飼って世話をして気づいたが人の世話が生殺与奪している生き物との関係性はあまりよくない感じがした。人は環境をある程度整える手伝いはしても世話を直接するのではなく、人も環境から利をもらい同じ環境に依存する対等の関係として生物と触れ合いたい。里山がまさそれか。
ポートランドでコブベンチ(土などで作る自作ベンチ)を作って町中においてる話あったな。まちを住人が自由にハックできるといい街になるかも(シティリペア) https://
中埜さんが修復プロセスではなく修飾プロセスと呼ぶのはどうか?と言っていた。修復だと後戻りをイメージする人が多いからだそう。構造保存変容はこれまでの構造を保持したまま新しい構造を生成するので元に戻るイメージではないね、確かに。