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畑における焚き火台作りから学んだこと

2 min read

雑談イベントをやった

@kyon_mmさんとTwitterでやりとりをして雑談しようといってたら、いつの間にか雑談イベントになっていましたw

https://alexander-study.connpass.com/event/235363/

当日のレポートはイベント終了後すぐにaki-mさんがあげてくれています。

https://aki-m.hatenadiary.com/entry/2022/01/02/223734

ここでは、その時話した焚き火台の話を少し補足しておきます。

焚き火台を作った話

5-6年前から、毎週友人たちと借りている畑に行って農作業をしています。一昨年くらいから冬は農作業が少ないので、石を拾って作ったカマドで、そのあたりに落ちてる枝などを燃料に焚き火をし、焼き芋作ったりお湯を沸かしてコーヒーを作って飲むという遊びをするようになりました。

これまで石を組んだカマドの上にヤカンを置いたり、焼き網をのせてヤカンを置いたりしていたのですが、なかなか安定しませんでした。

「囲炉裏の上にある自在鉤みたいのに吊るしたいよねー」という話は以前からしていて、竹を三本足で組み合わせて支柱を作って上から吊るしたらどうか?というアイデアもありましたが、実現していませんでした。

もちろん材を買ってきて作ったり、そもそも焚き火台を買ってくるという選択肢もあるのですが、この畑での農作業は「できるだけお金をかけないで、そこにあるもので創意工夫しよう」という暗黙の価値観があり、安易に購入するという選択肢はとってきませんでした。

昨年末に畑で焚き火していた時に、友人がInstagramの写真を見せてくれて「こういうのいいですよね」と見せてくれました。

「Y字の支柱を2本立ててそこの間に一本枝を通す」ただそれだけの構造ですが、そこにこれまでに解消されていなかった課題(水平をとる、安定させる、簡単に作る)が一気に解決できることに気づいたのでした。

ちょうど近くに落ちていた木の枝を切ってY字の支柱をこしらえて、カマドの横に立てて、これまた落ちていた真っ直ぐな枝を適度な長さに切って、それを支柱に渡してヤカンをぶら下げ高さを調整する、そんなことをもの5〜10分くらいやっていて見事ヤカンをぶら下げて下から火を起こしお湯を沸かすことに成功しました。

友人たちと、素早く、うまく実現できたことに、ただただ喜び、興奮していました。

ここで何が起きていたのか?

もちろん、市販の焚き火台を買ってきたらこんな試行錯誤をする必要もないし、最初からお手本を見ながら作っていたらずっと早くできたのでしょう。

私たちがここで行ってきたことは

  • (1) その場にある材料でなんとかすること
  • (2) 試行錯誤をして改良を重ねること
  • (3) 解消できない課題を特定すること
  • (4) 外部の知恵を借りてくること
  • (5) 知恵を元に工夫して課題を一気に飛び越えること

というプロセスでした。

(1)や(2)は、レヴィ・ストロースの言うところのブリコラージュそのものです。

ブリコラージュ(Bricolage)は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」こと。「器用仕事」とも訳される[1]。元来はフランス語で、「繕う」「ごまかす」を意味するフランス語の動詞 “bricoler” に由来する。 (Wikipediaより)

借りている畑の周辺には木や竹や石が転がっています。私たちはそれらを生かして何ができるか?を常に考えています。今回はそれだけではなかなか越えられない状況でした。試行錯誤はしているのですが「何か足りない」状況でした。足りなかったのは「自分達にはない現状の延長線上ではない発想」です。

(3),(4),(5)は、クリストファー・アレグザンダーのパタン・ランゲージで紹介されているパタンを採用して現場でイノベーションを起こしたのと同義です。(3)はフォース、(4)がパタン、(5)がパタンを仮説として現場で実装した結果です。

友人がInstagramの写真を眺めていて「これは?」と見つけた写真が、まさに「パタン(パターン)」だったのです。つまり特定の状況下で繰り返される問題の解決方法です。

この話をしている間に、Discord上でこんなコメントがありました。

森のコンテキストと人がつながった

そうです、まさに、森(というか隣に大きな木が生えている畑なんですが)という環境と、そこにいる私たちが関わりを持ってひとつの調和のとれた生活(快適にお湯が沸かせる環境としての焚き火台)が生まれた瞬間でした。

この調和は、それまでの試行錯誤のプロセス、つまり少しづつ自分たちで焚き火台を作り工夫してきた上に積み重なり生まれました。

モノと環境の関係性

私たちの世界には、モノやプロダクトが溢れています。こんな手間暇かけずとも焚き火を楽しむことはできるし、もっと時間を短縮して楽しむことができます。

しかし、市販品の焚き台を使ってお湯を沸かす人たちは、今回の私たちほどの喜びや達成感はきっと得られないでしょう。なぜなら、この喜びや興奮は試行錯誤の体験(プロセス)を経るからこそ得られるからです。「手っ取り早く成果を得る」ことは結果についての体験を得ることはできますが、プロセスによる体験は得ることができません。

また、焚き火台を買ってきて、その場に置いて焚き火をしてお湯を沸かしたとして、その場所と焚き火をしている人の間の調和が取れていると言えるのでしょうか?環境に完成品を持ち込んで使うということは、環境と人の関わりが急激な変化を伴って変わるということです。

金属の焚き火台を持ってきて火を起こしお湯を沸かすのは一見普通のことです。しかし、よくよく考えてみると、金属の製品というその場にない存在がこつ然と現れて、人がその道具を使って目的を達成するという状況が生まれます。金属の製品と環境との関係は、調和ではなく差異が生まれ、その時点においては不調和を生み出しているとも言えるでしょう。

一方、石を組んで釜戸を作り枝を組み合わせて使ってヤカンを吊るすこの仕組みは、その場にあるものから作られていて馴染んでおり環境と調和しています。この感覚は微妙なものかもしれませんが、両者を比べてみると誰でも気づくものだと思います。

もちろん、その場と不調和であっても「目的が達成できればそれでいい」という観点であればまったく問題ありません。むしろ現代社会はそういった目的論に支配されています。目的論自体も否定されるべきものではありませんが、幅を利かせすぎているのが不調和の原因だと感じています。

このバランスを欠いていると、目的の名の下に全てのプロセスをすっ飛ばすことで、貴重な体験を失うことになります。これは『ジョジョの奇妙な冒険』の第五部、キングクリムゾンのスタンド能力と同じです。

人間の喜びとは結果ではなくそこに向かうプロセスにあるという立場に立つと、目的を達成するためにプロセスを飛ばすという行為は、環境との間で繰り広げる試行錯誤を経た調和のプロセス、そこで得られたはずの体験、学び、喜びを失ってしまうのかもしれません。

アジャイルの定義より大事なこと

雑談の元のテーマの話とつなげるのであれば、理想的な「アジャイル」の条件や定義にかなっているかそうでないかは現場においては問題ではなく、大事なのは「今、その状況で調和が生まれているのか?不調和を特定してそこに調和を見出そうとしているか」という点ではないでしょうか。

「外部からの新たな視点・発想」というのも非常に大事です。それが「パターン」であり「プラクティス」です。しかし、それらの外部の新しい視点や発想が、あるコンテキストにピッタリはまるのかはやってみないとわかりません。あくまでも仮説としてのアイデアです。

現場の人が、自分達が感じ取った環境情報や、外部から取り入れた新たな視点をうまく使って、ブリコラージュしていく。その繰り返し自体に価値があり、喜びがあり、最終的に成果に結びつくのではないかと思います。仮に成果に繋がらないとしても、個人にその体験があれば人生の糧となり、人生の別の文脈に生きると考えれば、短期的な成功とか失敗などは、問題ではなくなります。

何が起きてもいい、快も不快も体験すればいい、常に体験から学べばいい」という態度があれば、恐れから解放され、本当に自由に行動できます。このことこそが、真の意味でのアジリティではないかと考えるのです。

ささいな焚き火台の話でしたが、自分にとっては重要な話なので補足しておきました。