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11年目の3.11、そしてウクライナ侵攻で、気づいたこと

世界の問題の根っこはなんだろう?どうすればよいのだろう?に思いを馳せる

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3.11、自然災害と持続不可能な技術のダンス

2011年3月11日、僕は約1年前の2010年に東京から愛媛に移住していた。東京の友人、実家の両親や弟たちが体験した震災の地震の揺れも、避難も、僕は体験していない。四国からは圧倒的な津波の映像しか見えなかった。

その年の7月に、岩手の陸前高田の震災ボランティアに参加した。岩手県は両親の実家があり親戚も大勢いる。陸前高田は子供の頃に何度か海水浴にいったことがあった。

親戚の家は、大半は内陸側だったので無事だったが、気仙沼在住の従姉妹が一時期行方不明になった。当時Google Person Finderを使って避難所の名簿を片っ端から検索して、ようやく従姉妹の無事と居所を突き止めたことを思い出す。

ボランティアセンターのある遠野市から陸前高田へと向かうバスに乗って被災地へ向かった。同じような田舎の田園風景が突如一変したのが強烈に印象残っている。陸前高田の街に出てみると見渡す限り瓦礫の山、何も残っていない風景に衝撃を受けた。目前の景色は数ヶ月前に見た広島の原爆爆心地の写真と同じだった。

2011年はちょうどパーマカルチャーを正式に学び始めた年でもある。今はなき淡河の古民家を使ったパーマカルチャー関西のセンターで、持続可能な生活をデザインするパーマカルチャーを、持続不可能な原発から生じた見えない放射性物質が広がる震災後の時期に学んでいたことが強烈に印象に残っている。

当時を思い返してみると、猛烈な自然災害と持続不可能な技術がダンスを踊った結果、奇跡的に間一髪、東日本壊滅を乗り越えられた、と感じる。

ウクライナ侵攻、人の生存本能と持続不可能な技術のダンス

そして2022年、今僕は生存本能が駆動する人の内的世界の自己受容〜自己統合に向かうためのメンタルモデルをはじめとするHMテクノロジーを学んでいる。

その最中にウクライナ侵攻が起きた。この事件は「ロシアが悪」という単純な図式では済まない、それまで何十年も積み重ねられた人々の恐怖と不安に駆動された生存本能の連鎖が引き起こした、二国間の問題だけではない、世界中を巻き込んだ不本意な現実なのなもしれない。

一昨年から続く新型コロナウイルスの騒動も含め、人の不安や恐怖がいかに人間社会を動乱に向かわせるかを同時代で目の当たりにしている。

11年前のパーマカルチャーと東日本大震災とそれに続く原発事故、そして今のHMテクノロジーとウクライナ侵攻、そこから続く様々な悲劇の数々。どちらの場合も、自分がまさに今学んでいること(持続可能なデザイン、人の内的世界の統合)が、世界に欠落している結果として生み出された出来事という、まったく同じ構造に改めて驚かされた。

先日のロシアの原発への攻撃などは、恐怖に駆動された生存本能と、持続不可能なテクノロジーがダンスを踊った結果としての考えうる最悪のケースが現実に起こりうるということが明らかになったといえる。

「ない」ではなく「ある」に気づくことが未来を作るという仮説

これまで、現代社会は技術革新で立ち塞がる問題を解決しようと必死になってきた。しかしこの現状を引き起こしている根っこは、人の「〜がない」という欠乏の信念から生まれる不安、恐怖や、それに基づくさまざまな人間の行動ではないだろうか。

この「〜がない」と言う信念を「〜はある」に変えていかないと、この悲劇の連鎖は止まらない気がしている。

たとえば、パーマカルチャーの提唱者の一人であるビル・モリソンは「地球を森にする」ことをビジョンとしていた。モリソンによれば、森は畑よりもずっと安定して食料を生産してくれる環境だという。アグロフォレストリーも類似する概念だ。

しかし人は森を切り開いて木材としてしか見ておらず、多くは森よりも生産性の低い畑に変えてしまった。地球は人間が必要とするものを与えてくれる潜在力があるのに、人間がそれを使いこなせていないが故、現在の文明が様々な問題にぶつかっていると考えることができる。

『ザ・メンタルモデル』由佐美加子さんは、人の「〜がない」という無自覚な信念が、その人の周りの不本意な現実を作り出しているという仮説に立っている。

「ありのままでは価値がない」「ありのままでは愛されない」「ありのままの自分は何かが足りない」「自分はひとりぼっち」という信念が人の根っこにあり、その結果として「ない」ものをなんとか埋めようとしたり、「ない」ことを諦めて行動しているが、最終的には「やっぱり〜がない」という不本意な現実が生まれてしまうということだ。

今まさにおきているウクライナ侵攻も、それ以前の時代からの「わかってもらえない」「わかりあえない」「力が足りない」「安心がない」といった不安と恐怖に各国が駆動された結果として現れていると感じざるを得ない。

これまでの技術とは「「ない」ものを「ある」に変える」という目的でひたすら革新されてきた気がしている。しかし、本当に必要な技術革新とは「「ある」のに「ない」としていることを「ある」と気づかせる」ためのものではないだろうか。

私たちが「〜はある」と気づけば、「〜はある」という信念に基づいて行動していけば、「ないものにしていたけどある感情」を感じることができれば、きっと「〜はある」という現実が作り出される、そんな未来を作りたいと思った、11年目の3.11だった。